原文
四部叢刊初編
企者不立;跨者不行;自見者不明;自是者不彰;自伐者無功;自矜者不長。其在道也,曰:餘食贅行。物或惡之,故有道者不處。
異伝
- 炊者不立;自視不章;□見者不明;自伐者無功;自矜者不長。其在道曰:𥺌食贅行。物或惡之。故有欲者□居。(馬王堆帛書・老子甲22)
- 炊者不立;自視者不章;自見者不明;自伐者無功;自矜者不長。其在道也,曰:𥺌食贅行。物或亞之,故有欲者弗居。(馬王堆帛書・老子乙22)
書き下し
企つ者は立た不。跨ぐ者は行か不。自ら見ゆる者は明なら不。自ら是しき者は彰なら不。自ら伐る者は功無し。自ら矜む者は長たら不。其れ道に在る也、曰く餘りに食ひ贅に行ふと。物或ひは之を惡む、故に道を有つ者は處ら不。
現代日本語訳
直訳
つま先立つ者は立たない。大股で歩く者は進まない。自分から見えると言う者ははっきり見えない。自分からこれが正しいという者ははっきり分かっていない。自分から誇る者は褒められない。自分を偉いと思っている者はかしらになれない。これらのことは天地の掟=「道」から見ると、余計なものを食べ無駄なことを行うと言う。(「道」の作用の結果生まれた)物質は、あるいはこうしたことを嫌うから、「道」に従う者はこういうことをしない。
意訳
つま先だって目立とうとしても、いつまで続くものか。結局は立てない。大股で歩いてもいつまで続くものか。だから遠くへ行けない。自分から分かっていると言う者ははっきり見えておらず、自分から「これが正しい」と言う者は区別が付いていない。どちらも自己顕示欲が言わせているに過ぎない。
自分のしたことを誇る者は褒められず、自分が偉いと言い張る者は人々のかしらになれない。どちらも嫌われるに決まっているからだ。
これらの行動は、天地が万物を生み出す手続きである「道」から見れば、余計な事に手を出し、余計な事を行うと言う。人間を含め、「道」が生み出した万物は、時にこういう行為を嫌うから、「道」に従って生きる者は、こういう行為をしない。
訳注
企者不立
”つま先立ちする者は立たない”。
「企」は”つま先で背伸びをするように立つ”。目立とうとしてつま先立ちしても、「道」の作用に従って出来上がった人間には、長く続けることが出来ない。本来はかかとまで地に着けて立つように出来ている。こうした自然な作りに反するから、”つま先立ち”→”立たない”という、一見偽であるような言い廻しで「道」に反していることを説いている。
跨者不行
”大股で歩く者は進まない”。
「跨」は〔足〕+〔夸〕”大きく開く”で、大股になること、大股で歩くこと。人は一時的に大股で歩き、また走ることは出来ても、いつまでも続くものではない。体の本来の作りに反しているからで、これもまた「道」にかなっていない。
自見者不明
”自分で見えると言う者ははっきり見えていない”。
「明」は光量が大きくてはっきり見えること。レンズを構造に組み込んだ人間の目は、必ず視野の周辺付近は暗くてぼんやりとしている。自分で見えると思い込む者、他人にそう主張する者は、人間の視覚に見落としがある事に気付かず、これもまた「道」に反している。
自是者不彰
”自分から正しいという者は区別が付いていない”。
「是」は自分で現地に出かけて「よし」と確認すること。「彰」は区別が明らかであること。人間が下せる「正しい」という判断は、時間的にも空間的にも、また立場的にもごく限られた範囲にしか通用しない。晴天の下で「晴れている」と主張するのは正しいが、一時間後には雷雨かも知れないし、地球の反対側は雪かも知れない。干ばつに苦しむ農民に、「よいお天気で」と言えば「コノヤロ」と思われるだろう。こうした時間的にも空間的にも立場的にも、あらゆる物質の状態を制御しているのも「道」で(『老子』第十四章)、「道」のあらゆる作用を前にして、人間が「これは正しい」と判別するのはおこがましい、ということ。
自伐者無功。自矜者不長。
”自分から(実績を)誇る者は褒められない。自分から(自分を)偉いと誇る者は(人々の)長になれない”・
『老子』第二十二章「不自伐故有功。不自矜故長」の裏返し。「伐」は”討伐する”が原義で、漢代ごろから”(自分の行為を)誇る”を意味するようになった。詳細は論語語釈「伐」を参照。対して「矜」は”自分自身を頼みとして誇る”の意。
行為にせよ当人自身にせよ、威張れば嫌われるに決まっており、褒められもせず、かしらとして推戴もされない、ということ。
其在道也、曰、餘食贅行
”そういうことは「道」の上では、余り物まで食べ余計な事まで行うという”。
「其」の原義はかごに盛った供え物で、殷代から代名詞に転用された。「之」が直近の事物を指すのに対し、やや離れた事物や、かごの供え物のように複数の事物を指す。詳細は論語語釈「其」を参照。『老子』本章では、章の頭からこの句の直前までに否定された行為を指す。
「餘」は「食」の、「贅」は「行」の修飾語。現代日本語に訳す際には、目的語として訳すのもやむを得ないが、周代以降の漢語は一貫して修飾語→被修飾語、動詞→目的語の順だから、解釈にはこういう語順に留意が必要。
物或惡之、故有道者不處
”(人間を含む)万物は場合によりこれ=余計な行為を嫌う、だから「道」を(心に)保つ者は、そういう行為の場面には居ない(=そういう行為をしない)。
『老子』の宇宙論では、まず最初に「常」”確率”があり、その働きで「天地」”宇宙”という入れ物が出来、「天地」の中で「物」”万物”を生成し制御するからくりを「道」という(『老子』第一章)。
「物」には人間も含まれる。『老子』本章がここまで否定してきた「目立とう」とする行為は、自我のある人間に嫌われるだけでなく、人間を除く万物にも「或は」嫌われるとここではいう。つまり目立とうとしてうまくいくこともあるが、「或は」嫌われて足下をすくわれる、という。だから「道」に従って生きる者は、そういう目立つ事をしない、というわけ。
余話
『老子』本章について、戦国時代の「郭店楚簡」には該当する部分を訳者は見つけることが出来なかった。見つかったのは漢代初期の「馬王堆帛書」で、章の頭が「企者不立」→「炊者不立」、終わりが「故有道者不處」→「故有欲者弗居」となっているのを除き、異体字を使っているだけでほぼ現行と同じと言える。
後者に対しての理解はたやすい。”「道」を心得たものはしない”のではなく、”ナニナニをしたいと欲を持っている者はしない”と「馬王堆帛書」は言う。つまり『老子』本章全体が、野望を持つ者にとっての手引きになっており、「野望を持つなら目立とうとするな」と教えていることになる。
だが前者についての理解は簡単ではない。「企」→「炊」一字の違いだが、「炊」字は『大漢和辞典』を引いても”かしぐ・もやす・吹く・神の名”しか語釈が載っていない。あるいは拡大解釈して、”のろしを上げるような者は立たない”と解するのが妥当なのだろうか。
「炊」字の明瞭な初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」で、「毋敢炊飭」とあり、「あえてめしたきするなかれ」としか読めない。


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