原文
四部叢刊初編
不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨。常使民無知無欲。使夫知者不敢為也。為無為,則無不治。
異伝
- 不上賢,□□□□□□□□□□□民不為□;不□□□□民不亂。是以聲人之□□□□□□□□□□□強其骨,恆使民無知無欲也。使□□□□□□□□□□□□□。(馬王堆帛書・老子甲道經3)
- 不上賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使民不亂。是以聖人之治也,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨。恆使民無知無欲也。使夫知不敢弗為而已,則無不治矣。(馬王堆帛書・老子乙道經3)
書き下し
賢を尚ば不らば、民を使て爭は不らしめん。得難きの之貨を貴ば不らば、民を使て盜みを為さ不らしめん。欲む可きを見不らば、心を使て亂れ不らしめん。是れ以て聖人之治は、其の心を虛しくすれども、其の腹を實たす。其の志を弱むるも、其の骨を強む。常に民を使て知無く欲無くす。夫れ知る者を使て敢へて為さ不らしむる也。為す無きを為さば、則ち治まら不る無し。
現代日本語訳
直訳
賢者を尊ばなければ、民を争わせなく出来よう。得がたい財貨を尊ばなければ、民が盗みを働くのをやめさせられよう。欲しいものを見なければ、心が乱れないように出来よう。だからこそ聖人の政治とは、民の心をうつろにする代わりに、その腹を満たす。民の欲望を弱める代わりに、その骨(=体)を丈夫にする。常に民を、(新しい)情報を知らず欲望のない状態にする。そもそも知っている者には、余計な事をさせないようにするのである。余計な事をしないようにすれば、つまり治まらないということが無い。
意訳
為政者が「賢者を登用する」と言い出さなければ、我も我もと民が争うことがない。手に入れがたいお金や宝物などを尊ばなければ、それ見当てに民が盗みを働くことがない。そもそも欲しくなるようなものを見なければ、心を乱すことがない。
この道理だからこそ、万能の人の政治は、民の欲を空っぽにする代わりに、腹一杯喰わせてやる。何かしたがる欲求を弱める代わりに、体を丈夫にしてやる。いつも民が、余計な事を知らないよう、欲を起こさないようにする。そもそも余計な事を知っている知識人には、余計な事をさせないようにするのだ。余計な事をしなければ、世が治まらないわけがない。
訳注
尚
尊んで高い地位に就ける。「尚」字の原字は、大広間の天井近くに開けた窓から気体が立ち上っていくさまであり、”高い位置に据える”の原義がある。「馬王堆帛書」が「上」字を使っているのも頷ける。
貴
価値のあるものだとして尊ぶ。原字はタカラガイに穴を開け、ヒモで連ねて吊したさま。周代の金文に、褒美として吊したタカラガイの束を与える例があり、「それを元手にこの青銅器を鋳た」を鋳込んだ例が複数ある。現伝の『老子』が成立する戦国時代には、すでに青銅製の貨幣が諸国で出回っていた。
貨
財宝。初出は戦国文字。字形は〔化〕”交換”+〔貝〕”価値あるもの”。交換できる価値あるものの意。同音は存在しない。戦国文字から”財宝”の意に用いた。
不見可欲
欲しくなる可能性のあるものを最初から見なければ。最初から知らないなら、欲しくなり心が乱れることがないというわけ。買うものを知っているから買い物依存症が起こるわけで、買う対象がなければ起こらない。
聖人
万能の人。知的能力を含む、耳や口の能力が優れた人を指し、神に近い聖者とは関係が無い。
虛其心
心全体でなく、欲望する心を空っぽすること。すると「欲しい欲しい」と心が乱れず、濃厚や機織りなどに精を出して、その成果物に満足するよう導くことが出来る。
志
〔士〕”貴族や知識人”+〔心〕。余計な知識があるので、余計な事をしたがる心。
夫知者、不敢為也
「夫」は”そもそも”。民に余計なことを知らせないようにしても、どうしても余計な事を知っている知識人は出てくる。そういう者には、「敢為」”わざわざ(余計な事を)する”ことがないよう、制限するわけ。
ここから見て、『老子』の説く為政者の仕事は「ほったらかし」ではなく、見せない、知らせない、させないという、ずいぶん骨の折れるものだとわかる。こうした考えはあるいはこんにちの独裁国家と秘密警察の組み合わせになるのだが、それゆえ韓非子が自説を『老子』を土台にして立てたのは偶然ではない。
この部分、馬王堆帛書では「使夫知不敢弗為而已」となっており、「者」が無いから、「知」を”余計な知識”そのものと解さないと「而已」”~し尽くす”の文意がわかりにくくなる。
為無為、則無不治
「為無為」とは”何もしない”ことではない。人間の生活資源となる水や生物の生々流転は、『老子』の説く「道」のはたらきだから、それを得ようとする耕作や水路掘り、機織りなどは、していいことでありすべきことでもある。でなければ、腹を満たしたり骨を強めたり出来ない。それ以外の余計な事をしないから、生活資源の生産に専念できる。従って、治まらないことが無い、というわけ。
余話
『老子』を知っていても『老子』そのものを読む人は少ないから、「老荘思想」と一緒くたにして、”何もしないことが尊いのだ”と勘違いしている「専門家」も少なくない。しかし何よりも実利を重んじる中国人が、もとからそういう空理空論をもてあそぶ癖があったわけでは決してない。
漢帝国が滅んで三国時代に入ると、親子兄弟ですら信用できないとんでもない乱世が押し寄せた。飢饉や戦乱によって、信じがたいほどの人々が死に追いやられた。wikipedia「人為的な要因による死者数一覧」条によると、低い推定で3,600万人が犠牲になったと言う。三国時代よりやや昔、157年の後漢の人口が5,648万人というから、被害のすさまじさは想像を超える。
また『傷寒論』を著した後漢末期の張仲景はこう述べている。
余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。
私の一族はもとは大勢いて、二百人を過ぎていただろうか。だが漢末の建安年間(196-220)以降、十年と過ぎないうちに、一族の三分の二が死に絶えてしまった。その中で、寒さと栄養失調による死者は七割に上る。(『傷寒論』張仲景原序)
三国末からは天変地異と戦乱に加えて、異民族の侵入略奪が加わったから、「何をしても無駄だ」と人々が後ろ向きになったのは不思議ではない。そういう時代に説かれた「老荘思想」は、なるほど「その通り、何をしても無駄だから何もしなくていいんだよ」と人々に慰めを与えただろう。
同時に三国から南北朝時代の道家は、あきらかにヤヴァいク〇リを開発しては人々に配ったから、こんにちの世界でも見られる、世の上から下までクス〇漬けの失敗国家とそっくりになった。怠惰と〇スリしか慰めが無かったのである。それらはまちがいなく、『老子』の説く「余計なもの」だった。
だが慰めも実用の一種である。時代背景によって、実用の需要は変化する。現伝『老子』の成立した戦国中末期はもまた、血を血で洗う戦乱の世だったが、三国から南北朝にかけて程の地獄では無かったらしい。
しかもはるか春秋の世に孔子に「礼」を教えたとされる、道家の祖とされる人物・老子の時代は、戦国の世よりいっそうのんびりしていただろう。春秋の世にも戦乱や天変地異はあったが、「余計な事を考えず、田仕事や機織りに精進しなさい」という教えは、当時なりの実用性があった。
だからこそ、堂に入った我利我利亡者の中国人が、こんにちまで後生大事に伝えたのである。本章はまるまるが、人物・老子の言葉では無いだろうが、基本精神は受け継がれていると考えていい。
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