原文
四部叢刊初編
太上,下知有之;其次,親而譽之;其次,畏之;其次,侮之。信不足,焉有不信焉。悠兮,其貴言。功成事遂,百姓皆謂我自然。
異伝
- 大上,下知有之。其次,親譽之。其次,畏之;其次,侮之。信不足,焉有不信。猷乎,其貴言也。成事遂功,而百姓曰我自然也。(郭店楚簡・老子丙1)
- 大上,下知有之;其次,親譽之;其次,畏之;其下,母之。信不足,案有不信。□□其貴言也。成功遂事而百省胃我自然。(馬王堆帛書・老子甲道經17)
- 大上,下知又□;其□,親譽之;其次,畏之;其下,母之。信不足,安有不信。猷呵其貴言也。成功遂事而百姓胃我自然。(馬王堆帛書・老子乙道經17)
書き下し
太いなる上は、下之の有るを知る。其の次、親み而之を譽む。其の次、之を畏る。其の次、之を侮る。信の足ら不り焉らば、有るの信とせ不り焉。悠なる兮、其の言を貴るるや。功成り事遂げて、百姓皆我が自ら然ると謂ふ。
現代日本語訳
直訳
大いなる上(=為政者)は、下(=庶民)が上があるのを知っている。その次は、(庶民が)親しんで上を褒め称える。その次は、上を恐れかしこまる。その次は、上をあなどる。上を信用するに足りなくなったので、上が(上で)あることを信じなくなった(のだ)。(最高の為政者は)ゆったりしていることだよ、その言葉を恐れ慎むさまは。(だから)功績が達成され事業が完成しても、庶民は(知らないから、)自分ら自身でこのよう(に生きているの)であると言い切る。
意訳
最高の為政者は、庶民がその存在だけを知っている。その次は、庶民が親しんで「偉い人じゃ」とたたえる。その次は、庶民が「何をされるか分からない」と怯えて慎む。その次は、庶民が「バカ殿じゃ」と馬鹿にする。ぜんぜん信用できないので、為政者の資格を認めなくなったわけだ。
対して最高の為政者は、まことにゆったりと構えたもので、庶民に「ああせい、こうせい」といちいち命令を言い聞かせるのを慎む。だから政策が達成され社会事業が完成しても、庶民は君主のしわざだと知らないから、「わしら自身で、うまいことやってのけたのだ」と言ってはばからない。
訳注
太上下知有之
”最高の為政者は、庶民がその存在を知る”。この句の「之」の字形は足が地に着いたさまで、直近のものを指す指示詞。ここでは「太上」を指す。
最高の為政者が政治を執る場合、庶民は為政者がいるという事は知っているが、何をしているかはぜんぜん知らないということ。
其次親而譽之
”その次の為政者は、庶民が親しんで褒め称える”。
いわゆる善政だが、『老子』本章はそれを最高の政治とはせず、最高の政治は為政者やその政治を、庶民は褒め称えもしないのである。太古の聖王・堯が、同じように考えたされる「鼓腹撃壌」の故事は、『史記』には無く南宋の曽先之が編んだ、日本でだけ有名な『十八史略』にある。
治天下五十年、不知天下冶歟、不治歟、億兆願戴己歟、不願戴己歟。問左右不知。問外朝不知。問在野不知。乃微服游於康衢、聞童謠。曰、立我烝民、莫匪爾極。不識不知、順帝之則。有老人、含哺皷腹、擊壤而歌曰、日出而作、日入而息、鑿井而飮、畊田而食。帝力何有於我哉。
尭は天下を五十年統治したが、天下が冶まっているかいないか、民衆が自分を君主でいさせたいと願っているかどうか、分からなかった。そこで側近に聞いたが知らなかった。政府の役人に聞いたが知らなかった。民間の者に聞いたが知らなかった。
そこで尭は服装を粗末にして目立たないようにし、盛り場に出かけて探ろうとしたところ、子供の歌を聴いた。「我ら万民の生活を成り立たせているのは、あのお方のお力によらないものはない。思わないうちに知らないうちに、みかどのお触れに従っているからだ。」
また老人たちがいて、ある者は口に食べ物を含んだまま腹を叩き、ある者は畑を耕しては歌っていた。「日が出て働き、沈んで休む。井戸を掘って飲み、耕して食べる。みかどのお力は、ワシらには関係ない。」(『十八史略』五帝・堯)
「堯は最後の歌を聞いて安心した」という話が日本の漢文業界では流布されているが、原文はここで終わりで、堯が安心したとも何とも書いていない。すぐに次の話、堯と山の番人の掛け合い漫才になってしまう。ただ似たような話が、戦国中期の『荘子』にあるだけ。
夫赫胥氏之時,民居不知所為,行不知所之,含哺而熙,鼓腹而遊,民能以此矣。及至聖人,屈折禮樂以匡天下之形,縣跂仁義以慰天下之心,而民乃始踶跂好知,爭歸於利,不可止也。此亦聖人之過也。
そもそも太古の時代は、民はただ生活しているだけで余計なことはせず、自分が何をしているかも理解せず、食うだけ食って楽しんでおり、腹鼓を打って遊んでいた。民の能などはこの程度だった。
ところが聖人が現れて、面倒くさい礼儀作法で社会にタガをはめ、正義を振りかざして天下の人をクルクルパーにした。だから民はずる賢くなって、奪い合いに憂き身をやつして止まらなくなってしまった。(『荘子』馬蹄3)
其次畏之
”その次の為政者は、庶民が恐れる”。
いわゆる暴君暴政で、為政者がどんな罰や重税労役を押しつけるか分からないので、庶民が怖がるということ。
其次侮之
”その次の為政者は、庶民が馬鹿にする”。
善政を施して馬鹿にされるわけではない事が、次の句で語られるから、悪政を施しながら、民を罰したり言うことを聞かせたりする、能力も意気地もない為政者をいう。
信不足焉、有不信焉
”民は為政者の信用が足りなくなったので、為政者の存在すら信じなくなった”。「焉」は「ぬ」と読み下して、”~てしまった”の意。
「中国哲学書電子化計画」では「信不足,焉有不信焉」と句読を切っているが、おそらく誤植。「…焉、…焉」と対句になる法が漢語の通例にかなう。
悠兮、其貴言
”ゆったりしていることだよ、その言葉を恐れるさまは”。
「兮」はここでは、”~であるなあ”の詠嘆の言葉、ほかに直前が形容詞であることを示す記号でもあり、”~であるさまは”と解せるが、『老子』本章の「郭店楚簡」「馬王堆帛書」ともに、「乎」「呵」としており、いずれも詠嘆の意であることから、詠嘆に解した。
『学研漢和大字典』「兮」条
- {助辞}主語や文のあとにつけて、感嘆や強調の語気をあらわす助辞。▽訓読では普通は読まない。「福兮禍之所伏=福は禍の伏する所」〔老子・五八〕。「巧笑倩兮=巧笑倩たり兮」〔論語・八飲〕
- {助辞}「へい、ほい」という間拍子(マビョウシ)の声をあらわす助辞。おもに「楚辞」や楚(ソ)の調子をまねた歌に用いられた。▽訓読しない。「大風起兮雲飛揚=大風は起こりて兮雲は飛揚す」〔漢高祖・大風歌〕
- {助辞}形容詞につく接尾辞。「乎」と同じ。「淵兮似万物之宗=淵として万物の宗に似たり」〔老子・四〕
「貴」字は『大漢和辞典』が『老子』本章・河上公注を引いて、”おそれる・かしこむ”の語釈を立てている。訳者は、『老子』成立からはるか時代が下る南北朝時代の「河上公注」をほとんど信用していないが、ここではその通りに解すれば文意が通り、”とうとい”→”おそれる”は派生義として無理がないと判断して採用した。
この句では誰が”ゆったりしている”のか記していないが、”庶民に存在だけが知られた最高の為政者”と解さないと、次の句と意味が合わない。
功成事遂、百姓皆謂我自然
”政治的な功績が達成し、社会事業が完成しても、庶民は誰もが自分は自分自身で今のようになっていると言い切る”。功成り事を遂げても、庶民は「為政者にしてもらった」とは考えず、「自分たち自身で達成した」と断言してはばからない、ということ。
「百姓」は農民ではなく”百の姓=たくさんの人々”で、万民のこと。「謂」は”評価する・断定する”の意で、ただ”言う”のではない。そう言い切る、ということ。
「我」は”自分の”。「我自然」は”自分の自力で得た結果”。古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。ただし春秋時代以降にこの文法は無いも同然になった。
余話
本章は珍しく戦国中末期の「郭店楚簡」が残っているが、その簡は現伝では次章とされる「大道廃れて仁義あり」を続けて記しているらしい。らしいというのは、訳者が現物やその写真を見ることが出来ないから、「中国哲学書電子化計画」で「郭店楚簡」をそう分けているのをとりあえず信用して言うに過ぎない。


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